天満にある滝川公園に行ってきたよ
大阪市北区役所のTwitterで、こんなものを見つけまして。
【青パト点描No.17】
滝川公園は、石垣の上にあります。元々「天満興正寺」というお寺があり、地元で親しまれていました。大塩平八郎の乱など歴史の舞台になりました。第2次世界大戦で焼失し、お寺は旭区に移されましたが、その名残で石垣が残っています。公園で遊ぶ時は熱中症に気をつけて下さいね! pic.twitter.com/YIvKeK1Auw— 大阪市北区役所 (@kitaku_osaka) June 29, 2020
時々近くを通ってはいるものの、そういえば公園内に入ったことがなかったな・・・と思い、散歩がてら滝川公園へ行ってきました!
広々として緑が多く、都心にいることを忘れてしまいそうな風景です。春になると桜がきれいなんですよ! すぐ近くの造幣局の通り抜けと比べると、穴場スポットです。
遊具が多くて、子どもたちの遊び場にももってこいですね。ブランコは幼児用と子ども用の2台、滑り台や砂場などがあります。
何も置かれていない、だだっ広い敷地も。早朝に出向いたのですが、おじさんがラジオ体操されていました。平和な光景です。
江戸時代の天満自治の中心地
公園の中には石碑や祠があり、この場所が重要な史跡であることが伺えます。
「史跡 天満興正寺(てんまこうしょうじ)御坊址」の石碑。
「御坊」は「お寺」の意。読み方は「おぼう」でも「おんぼう」でも「ごぼう」でもいいみたいです。「址」は「跡」の意。これも読み方は「し」か「あと」どっちでもよさげ。たぶん。
石碑の裏に刻まれている碑文はこんな感じです。
文永元年(1264年)真宗興正寺第三世源海上人摂津御化導に当り当地を天満御坊として法灯を創む
天保8年(1839年)大塩平八郎の乱のため焼尽す
安政3年(1856年)第27世本寂上人これを再建し興門の法灯摂河泉に光揮を放つ
昭和20年(1945年)大戦の戦禍に烏有に帰し、而もその後地区整理の改正に伴い、第29世現門主華園真淳寺基を赤川の地に移す
昭和45年 輪番 川合静雲 撰
なんか焼かれたり再建されたり別の場所に移されたり、大変でした!(やっつけ感)
江戸時代にはこの場所に天満興正寺、すぐお隣に天満組惣会所があり、天満自治の中心として活気に溢れていたようです。
こちらは「天満組惣会所」の石碑。
「天満組」は、江戸時代の大坂を区分する「大坂三郷」のひとつです。我らが南森町は天満組の一員でした。イエーイ! そんな天満組の行政を担当していたのが、天満組惣会所です。「惣会所」は今でいう区役所みたいなものです。
惣会所には惣年寄や町年寄といった役職者がいて、年貢を取り立てたり連絡網を回したり火消しの指揮をしたりと、行政の仕事全般をこなしていたみたいです。戸籍の業務も行っていて、天満組で管理する戸籍が何でか知りませんが天満興正寺に納められていたそうです。普通は奉行所が保管していたらしいんですけど。何でだろう?
当時の戸籍は「宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)」と呼ばれ、キリスト教の取り締まりのため、住民の信仰が記載されていました。出産の際にも手続きが必要なことから、天満興正寺は「産寺」とも呼ばれていたそうです。
公園内は敷地の高さが2段になっていて、ご覧の通り石垣で囲まれています。この石垣が当時の名残なんですねぇ。歴史が深い・・・。
ちなみに「大坂三郷」残りのふたつは北組と南組になります。北組の惣会所跡は平野町、南組の惣会所跡は谷町4丁目にありますよ!
大塩平八郎の乱!!
そんな感じで江戸時代の行政を担う場所でしたが、大塩平八郎の乱で火災に見舞われ、焼失します。
江戸時代後期、天保の大飢饉で苦しむ人々になんの救済策も講じない幕府に対し、大塩平八郎が起こした反乱です。
大塩さんのゆかりの地は南森町界隈にめっっさたくさんあるので、追々じっくり記事にしていきたいです。まったく見所が多い街なんだから・・・。
平八郎さんの乱で焼失した後、惣会所・興正寺ともに再建されますが、興正寺の方は第二次世界大戦の空襲で再び焼失。その後は「大阪興正寺別院」と名称を変更し、地区整理のため大阪市旭区に再建されます。それから経緯は知りませんが高槻市に移転し、今日に至ると。興正寺は明治時代、関西法律学校(現関西大学)の校舎として利用されていた時期もあるそうです。
惣会所の方は明治維新の際になくなり、跡地に滝川小学校が建設されます。で、滝川小学校も明治の終わりに現在の場所(造幣局のすぐそば)に移転。・・・この後にようやく滝川公園ができたのかな? まぁそんな流れだと思います。たぶん(やっつけ感その2)
百日紅がきれいに咲いていました! この時期は百日紅やサルビアが綺麗に咲き誇りますよね。